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2話 謹慎処分

Penulis: 日蔭スミレ
last update Terakhir Diperbarui: 2025-03-05 21:21:19

 まずい。キルシュは自分の手のひらから芽吹いた蔓を見ると、たちまち焦燥した。

「……」

 ─────まただ、いけない。

 自分を落ちつかせるよう、深く息を吸い、ゆったりと吐き出す。

 すると、蔓と花は瞬く間に光の欠片となって、キラキラと空気中を漂い消失した。

 これがキルシュの『能有り』としての固有の力、植物の具象だ。

 芽吹き花を咲かせるだけ……と、基本は無害で美しい。

 意識的に出す事は勿論できるが、こうして感情が昂ぶってしまうと、このように現れて、自身を守ろうとする。

 今回はただの蔦と花で済んだが、場合によっては棘を持った巨大な茨の蔦となる事もある。

 なので、確実に無害とは言い切れない事は確かだった。

 その上、現在では差別を受ける程に忌まれた力なので、本来ならばみだりに使うべきでないとキルシュもよく理解していた。

 この具象の力は感情に左右されるものだ。

 ましてやキルシュは多情多感な十七歳。感情はどうしても表に出やすい。

 キルシュ本人も、この力を上手に制御できない事を少なからず悩んでいた。どんなに頑張って制御しようにも強い感情を抱けば、どうしても現れてしまうのだ。

「学院長。驚かせてごめんなさい」

 一拍置いて、消え入りそうな声で詫びると、学院長は忌まわしいものでも見たとでもいったような冷ややかな視線でキルシュを見て深い息をつく。

 明らかな蔑みの視線だった。学院長は皺の寄った眉間を揉んで首を振る。

「君は一カ月の謹慎処分を。家にはもう連絡は済ませてあるから一度レルヒェ地方へと帰りなさい」

 静かに学院長は言う。

 感情で具象を出す程、だったので少しスッキリしたのだろう。あれ程までに怒りが満

ちていたのに、熱は一気に冷めた気さえもした。

「分かりました」

 キルシュは素直に返事して、膝を折り、びっしょり濡れたスカートの裾を摘まんで挨拶すると、学院長室を後にした。

 時刻はちょうど一限を終えた頃だった。

 休憩時間で談笑の漏れる教室幾つも横切り、階段を下りて校舎から出た時だった。

 頭上から『いいザマだわ!』なんて嘲笑が幾つも降り落ちてくる。

 視線を向ければ案の定、三階の窓からブリギッタとその取り巻きが見下ろしていた。

「あら~徒花ぁ~! どぉこいくのぉ~!」

「学院長からカンカンに怒られたのかしら? もうレルヒェ地方から出てこなくていいわよ!」

「ブリギッタ様の足なんか引っかけるからよ! 身の程を弁えなさいよ!」

「気をつけて帰ってね~」なんて嫌みったらしく別れの挨拶をされるのが、これがまた憎たらしい。

 主犯のブリギッタときたら、ハンカチーフをヒラヒラと振って見送っている。

 所作こそ品があれど、プフーなんて頬を膨らませて笑むその表情は本当に憎たらしいとしか言い様もない。

 西方メーヴェ地方の侯爵令嬢、ブリギッタ。

 透明感溢れるブルーベージュの髪にセレスタイトでも連想させる淡い青の瞳。

 冷ややかなで儚い美しさを持つ美少女……とは、入学当初から思っている。が、ご覧の通り、性格は最悪である。

(もう、どうせ自宅謹慎だもの……)

 キルシュは心の中で独りごちて、ため息をつく。

 その一拍後──キルシュは瞬く間に手のひらから蔦を芽吹かせてブリギッタのハンカチーフを奪い取った。

「きゃああ!」

 途端に劈く、ブリギッタの悲鳴に何だ何だと、他のクラスの生徒まで顔を出した。

 しかし、キルシュはそんな事を気にせず、蔦を巧みに操り、ハンカチーフをクシャクシャに丸めて結び、思う存分蹂躙した後……。

「飛んでけぇええ!」

 叫ぶなり、ハンカチーフを遠くへとポーンと投げ飛ばす。

「何するのよぉ! 徒花、あんたそのハンカチいくらしたと思ってるのよ!」

「知るわけないでしょ! そんなに大事なら拾えばいいじゃない、この性格ブス!」

 上階に向けてキンキンと甲高い罵声を一言。

 だけど、ここまでやれてしまうと最高にスカッとした。ざまぁみろ。その一言に尽きる。キルシュは蔦の具象を解き光に還すと、寮の方へとスタスタと歩んで行った。

 ***

 キルシュのこれまでの処分は合計五回。

 反省文が二回。そして、寮の中で三日ほどの休みを貰って自主勉強が一回。

 地方に帰れというような謹慎についてはこれで二回目だ。

帰り支度は、ほんの少しは慣れていた。

 だが、こうなった以上は当然のように義兄から酷い叱責を受けるに違いない。容易く想像できる近い未来に、キルシュは身支度をしながら暗いため息をつく。

(気が重たいな……)

 心の中でぽつりと独りごちて。キルシュは唇を拉げる。

 ……義兄ことイグナーツは現在、齢二十五歳にして伯爵領ヴィーゼを取り纏める若領主だ。このヴィーゼ領のあるレルヒェ地方というのは自然豊かな片田舎の辺境地。なので、ヴィーゼ辺境伯とも呼ばれている。

 キルシュがこの女学院に通い始めた年に義父は他界した。

 それっきり、義兄は領主としての執務を見事にこなしていた。

 理数学の学識もあり聡明で経歴も秀才そのもの。帝国でも名の知れた難関学院の首席卒業している程に優秀な頭脳を持ち、ツァール軍の戦闘教育さえも受けていたそう。

 言葉にするのであれば、〝非の打ち所の無い程の完璧な鬼才〟と言っても過言ではない。しかし本当に兄ではない。義理のきょうだいだ。

 キルシュがヴィーゼ伯爵家に来たのは、十歳の頃だったらしい。

 こうもあやふやなのは、キルシュ自身が〝それまでどこにいたのか〟何ひとつ覚えていない。謂わば、記憶喪失らしい。

 聞いた話によると、キルシュは火災に見舞われた教会から伯爵家に引き取られたそう。その教会はヴィーゼ領の外れにあったそう。

 教会から……つまりは身の上は孤児だったのだと結び付く。

 その火災の生き残りはキルシュ以外誰もおらず、たった一人で助かったらしい。

 医者曰く、その火事による精神的なショックによって、十歳より昔の記憶全てを消失したのだろうとの診断だった。

 そんな立場のキルシュを不憫に思ったのだろう。ヴィーゼ伯爵家は自らキルシュを引き取る旨を申し出たそうだ。

 そう。キルシュは、幼少期の記憶が何ひとつ残っておらず、屋敷に来てからの七年間の記憶しか無いのだ。

 『不安がる事は無い、大丈夫だ』と、亡き義父も言ってくれた。

 それは義兄イグナーツも同様だった。だが、それはある日を境に激変した。

 ──五年も昔、キルシュが屋敷に来て二年目のイグナーツの誕生日だった。

 花を摘んで、それを義兄にプレゼントしようだなんて思ったものだが、生憎その日は大雨だった。そこで、閃いたのは『具象の花』のプレゼントだった。

 みだりに使ってはいけない力と言われてきたが、義兄を喜ばせたい一心でキルシュは一生懸命に薔薇の花束を拵えた。

 そうして彼女は義兄の部屋に行ったものの、彼は不在だった。

 掃除をしていた使用人を掴まえて、訊いてみれば何やら婚約者と離れの建屋にいるとの事。

 「恐らく式の日取りを決めてるのでしょうね」なんてにこやかな言葉が返って来た。

 その時初めてキルシュは、義兄に婚約者がいる事を知った。

 誕生日に婚約! こんなにも喜ばしい事は無いと益々キルシュはプレゼント作戦を張り切った。しかし、夕刻ようやく会えたイグナーツは、とても幸せそうには見えなかった。

 当時キルシュは十二歳。子ども故に、空気など読めなかった。

 驚かせよう、喜ばせよう。ただその一心で、キルシュは彼の目の前で花を芽吹かせて贈ったのである。

 ……縁談は破綻していた。そんな事も知らずに。

 それが災いしたのだろう。苛立ったイグナーツは激昂し、キルシュを罵り頬を撲った。

 ──忌々しい、そんな力は俺の前で二度と使うな! この愚妹が! 目障りだ。

 冷たい叱責の言葉が注がれた。

 それ以降、イグナーツはキルシュに対して優しい表情を見せる事はほとんど無くなり、表情は乏しいものに変わり果てた。

 そこからきょうだいの間の溝は深まるばかり。キルシュは兄に対して拭えぬ畏怖を抱くようになっていた。

 いくら自分に非が無いと分かる状況下であったとしても、義兄は守ってくれた事は無い。寄り添ってくれた事も無い。キルシュの事を認めてくれる事も無かった。

 ──恥さらし。何度も言われた、その言葉は、耳に鮮明に焼き付いている。

 クラスメイトに嫌がらせをされようが、蔑むように徒花と呼ばれようが、どんなに辛辣な言葉を言われたって、大して傷付かない。けれど、唯一の拠り所……家族となれば、開き直る事も噛みつく事もできないし、話は違かった。

 自分には家族しかいないのだ。記憶も無くして、孤児だった自分を引き取ってくれて、まともな教育を受けさせてくれた家族……今は義兄のイグナーツしか拠り所が無いのだ。たとえ、もうまともに話せないとしても。

 そんな事をまじまじと考えていれば、キルシュの表情は陰る一方だった。

 ほぅ。と、暗いため息をひとつ。キルシュは自分の心を切り替えるように頬を両手で軽く叩く。

(今更ウジウジしたって仕方ない、帰ろう……)

 ご丁寧に学院が屋敷に連絡してしまったので、帰らなければ大問題になる。

「あ~もう仕方ない! 帰ろ帰ろ!」

 自らを鼓舞するように言って。キルシュは鏡の前で腕を組み、強気な笑みを無理矢理作った。

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     ……そうだ、キスしたのだ。 それも初めてのキスで舌を絡められて、随分と官能的なキスをされたのだ。 しかし不思議と不快ではなくて、少し……いいや、びっくりするほど気持ち良かった。自分でも本気で意味が分からない。 途端にキルシュは真っ赤になって唇を押さえる。 それにあの記憶の中の少年が彼と同一人物の〝ケルン〟というなら……。『いつか、おれの事を好きになってくれたら、お嫁さんになってほしい!』そんな言葉を言われた気がする。つまり、最初から自分に好意を持っていたという事になる。  そもそもだ。初めて出会った瞬間に彼は『見つけた』と言った。 ファオルの件もあって、ずっとこの日を待っていたように窺えてしまう。 しかし幻視を見るだの、非現実的な事が起きている。あれは本当に、同一人物なのか。何らかの変な力を使って、都合の良い夢でも見せられたのだろうか……。 キルシュは真っ赤になったまま黙考に耽る。だが、そんな様子に心配したのだろう。「キルシュちゃん、どうしたの?」 顔が真っ赤よ。と、シュネに心配そうに言われて、キルシュは我に返った。 同性とは言え初対面だ。『そのケルンに唇を奪われた』だのさすがに言えたものではない。 キルシュは慌てて首を横に振るう。 「大丈夫です、すみません。色々思い出してぼーっとしてしまって」「いいのよ。でも、びっくりしたでしょう……あまりにもよくできた機械人形だって」「……はい」「私も初対面は驚いたわ。確か、あれは五年程昔かしら……」  ──きっと、私たちは似たような立場だから話してもきっと問題なさそうね。なんて付け添えて、シュネは、薔薇色の唇を開いた。「私、北西部にあるシュトルヒ子爵領の牧師の娘なの。母は優しかったわ。けれど、父は能有りの私を疎く思って。二人は私の所為で喧嘩ばか

  • 機械仕掛けの偶像と徒花の聖女   14話 目覚めたそこは

     パタンと、静かに扉が閉まる音がした。  暖かで柔らかな、陽の光に促されてキルシュはゆっくりと瞼を持ち上げる。(私は……ここは)    すぐに頭に過ったのは昨晩の二つの出会いだった。  喋る鳩に、自立し思考する機械人形。それも元人間、能有りと思しくて……。 どちらも、現実的ではないものだった。まるで夢でも見ていたかのように思う。だが、見知らぬ絵画の天井と身体を包む暖かで柔らかな掛け布団の感触に、ここが学院寮でも伯爵家の屋敷でもないとキルシュは改めて理解した。(……どこだろう)    疑問は湧き立つが、それ以上に空腹の方が気になってしまう。  どこからか、ベリーを煮詰めたような甘酸っぱい香りが漂ってくる。それがジャムだったら、パンにたっぷりつけて頬張りたい。そんな事を考えつつも、キルシュは寝返りを打つ。 それもそのはずだろう。最後の食事は前日の朝。帝都の寮で朝食をとったきりで何も口にしていなかったのだ。  せめて、部屋に運ばれた夕飯くらい食べればよかった……と、後悔して、キルシュはぺったんこになった自分の腹を摩ったと同時だった。   『ケケケ……。起きたか徒花の眠り姫』 軽い調子の声と共に、目の前にポッと光の渦がポッと灯った。そこから羽ばたいて姿を現したのは昨晩出会った、喋る鳩、ファオルだった。   (ああ、やっぱり夢じゃなかった)    もしかしたら自分は頭がおかしくなって、変な幻覚でも見続けていたのかとさえ思っていた。そうではなかった、よかった。と、改めて思い、キルシュは自然と唇を緩めて、安堵した顔になる。     そんな顔に見かねたのだろうか。ファオルはツンとキルシュの額を嘴で突いた。「いだっ」 『何を惚けた顔してんだよ~おまえ本当にお気楽だなぁ』 愛らしい子どもの声だが、やはり憎たらしい。  突かれた額を擦りながら、キルシュは恨めしくファオルを睨む。   「った……何するのよ、痛いじゃないの」 『だってさぁ。なーんかキルシュを見てると、腹

  • 機械仕掛けの偶像と徒花の聖女   13話 思い出す事がただ怖い

     本当にどうしてなのだろう。なぜ、こんなにも悲しいのか、切ないのか分からない。  嗚咽を溢して泣くキルシュに彼はしゃがんで手を伸ばす。そうして、優しく髪を撫で頬を撫でて……濁流のように溢れ落ちる涙を掬った。   「泣き虫は相変わらずなんだな。ほら行くぞ」 ──立てるか? と、優しく言って。彼はキルシュに左手を差し出した。  そこにある太陽を象る火輪の紋様はいびつに引き裂かれていて……それを見た瞬間にキルシュの瞳は余計に潤った。  ああ、間違いない。先程の幻視の中で見たものと違いない。彼はきっと〝元〟能有りだ。そして恐らく、人間だったに違いない。そう考えるのが自然だった。   「……ケルン」 キルシュが小さく呟くと、彼はどこか切なげに笑んでキルシュの手をやんわりと握る。   「俺の名前、思い出してくれたんだ」  そうだ、ケルンだ。と彼は言って、彼はキルシュを抱き寄せた。 男の人に抱き締められたのは、記憶上初めてだった。  無骨で胸板が固くて少し厚い。機械人形にしてはあまりによく、出来過ぎている。皮膚も人間の質感と何ら変わらなくて、首筋から感じる匂いが何だか、温かなお日様のようで。何だか不思議と懐かしい心地がする。「……ねぇ、どうして。私は貴方の事を何も知らないのに、どうして」    分からない事が怖い。けれど、知る事が怖くて堪らなかった。  忘れた記憶が今にも蘇りそうだ。キルシュがこめかみに手を当てた途端だった。  目を瞑って真っ暗な視界の中、ボーンボーン……と柱時計のような音が鳴り、胸の奥がたちまち凍てつくように冷たくなる。    ────怖い。嫌だ、忘れたくない。忘れたくないよ。 しゃくり上げるように嗚咽を溢し、懇願する幼い自分が浮かび上がる。目隠しをされているのだろう。視界は塞がれていて、何も見えない。  身動き一つ取れなくて、ただならぬ恐怖で身体が強ばった。 ひっ。と、キルシュが、目を瞠った瞬間に、彼は途端にキルシュを今一度抱き寄せた。  まるで、〝そちら側に行くな〟という

  • 機械仕掛けの偶像と徒花の聖女   12話 記憶の鍵はそこにある

     ──霞のかかった白の視界は次第に色が付き始めた。黄昏を連想させる金と茜が交じり合う……そんな光が空間いっぱいに満ちていた。 記憶に無いが、そこはどこか見覚えのある景色で……。唖然としたキルシュは辺りをぐるりと見渡した。 なだらかな曲線を描いて広がる木目調の高い天井に、高い場所にある窓には蔓草を象ったアイアンの窓飾り。どこかの礼拝堂だろうか。『なぁキルシュ!』 途端に呼ばれた少年の声にキルシュが、振り向くと壇上のステンドグラスの前に少年と少女が立っていた。年齢は十歳に満たない程で……。 その光景を見た瞬間にキルシュの側頭部はズキリと痛んだ。 そこに立っている少女は、紛れもなく幼い頃の自分自身。茜色の髪に、若苗色の瞳。そんな小さな自分の正面で手を差し出している少年は、真夏の陽光を束ねたかのような金髪だった。 しかし不思議と彼の顔ははっきりと見えなかった。 それでも大きな特徴が見えた、左手の甲にある火輪──まさに太陽を象ったかのような能有りの紋様がある。それをはっきりと見た瞬間にキルシュの胸は痛い程に爆ぜた。喉の奥が嫌に乾いて苦しい。(何なの、これは……私は確か真夜中の森に居たはずで) どくどくと自分の脈が煩くなって、呼吸が苦しい。 身体が心が〝これ以上は見るな〟と拒絶している感覚もあるが、壇上の二人から目が逸らせない。 幼きキルシュは差し出された彼の手を取り、やんわりと微笑んでいた。 ……自然に普通に笑えている。今ではできない事に、キルシュは唖然としてしまった。『おれね、キルシュが大好きなんだ。大人になっても最高の親友でいよう。それでな、いつか……いつかは……』 顔の見えない少年は言葉を詰まらせる。そんな様子に幼いキルシュは首を傾げて彼を見上げていた。『なぁに?』『──っ! いつか、おれの事を好きになってくれたら、お嫁さんになってほし

  • 機械仕掛けの偶像と徒花の聖女   11話 初めては甘やかで

     ……と、言っても近すぎるだろう。 キルシュは彼からぷいと顔を逸らす。「な、何?」 いくら顔が格好良くて、人のように感情を持ち自立し思考するように思えても、人ではない。何を考えいるのか分からなかった。キルシュは、彼を一瞥した途端だった。すぐに頤を摘ままれて、無理矢理彼の方を向かされる。「……!」 頭から湯気でも上がってしまいそうだった。キルシュは真っ赤になって彼から目を逸らす。 堪らぬ羞恥は、具象の花を手のひらから次々に芽吹かせる。薄紅の蕾が膨らみぱっと小さな小花を次々に咲く様はまさに感情現れ。いたたまれない羞恥にキルシュは追い込まれる。「俺は一つ、おまえに頼み事をしなきゃいけない」 ややあって言った彼の声は少し震えていた。 おっかなびっくりとキルシュが彼を見ると、光る目のせいでうっすら分かる彼の顔が紅潮しているのが分かった。「頼み事?」 訝しげにキルシュは見る。彼は頷いた。「俺に少しヘルツを……おまえの〝心〟をくれないか?」「心?」 キルシュは眉をひそめて復唱した。 ──ヘルツとは、宗教学的に〝心そのもの〟を示す言葉だ。『心が欲しい』それがいったい、何を示すのだろうか……キルシュは困惑し何度も目をしばたたく。「〝心〟は力を発動させる為の原動力だ。さっきおまえを助けた時に、殆ど使い果たした。あと数時間しないと、俺の〝心〟は回復しない。このままだと俺たちは安全な場所に逃げ切れないと思う」 ──おまえを守らなきゃいけない、だから頼みたいんだ。と付け添えて。彼は、キルシュを上に向かせた。  確かこんなシーンは、夜に部屋で一人密やかに楽しむ娯楽、恋愛小説で見た事がある。 男性に頤を摘まみ上げられて、上を向かされて……そう。作中のヒロインたちと、全く同じ状態に置かれている。ああ、きっと、そうに違いない。 これから、されるであろう事

  • 機械仕掛けの偶像と徒花の聖女   10話 森に似合わぬ救世主

     やがて視界いっぱいを覆い尽くした閃光が消え、露わとなった正体にキルシュは目を瞠った。    ──それは、齢二十に届くか届かないかという風貌の青年だった。  柔らかに逆毛の立つ短い髪。その髪色は暗闇の中でも淡い色をしている事が分かる。装いは暗色を基調としたジレにシャツ、下衣に革製のブーツを合わせていて、洗練された雰囲気のあるものを召している。  上背もあり、ぱっと見た雰囲気は、鋭い目付きが印象的。とても、精悍な顔立ちの青年だった。 しかし、射貫かれた瞳は人間のものではない。 その瞳は暗闇の中、煌々とした光を放っているのだ。それはまるで、真昼の陽光を絞り集めたかのよな眩い金色で……。そんな瞳の奥底に真鍮色のギアのようなものがゆっくりと回っているのが見える。  更によく見れば、彼の首や手首の関節部位には不自然な継ぎ目があって……。 ふと連想するのは、機械科学の産物── 「機械人形(オートマトン)……?」  キルシュは呟くと、彼は何も答えずに視線を反らした。「走るぞ」    ぶっきらぼうに彼は言う。そして、彼はキルシュの手首を掴む獣道を駆け出した。 その一拍後、禍々しい咆哮を上げて異形の生き物は二人を追い始める。「**あああああ! 許さない、許さない、憎い……憎い!**」  のろのろとまどろっこしい、呪詛のような言葉が後方から響き渡った。 しかし彼の足は速すぎた。とてもでは追いつけず、さっそく足がもつれて転びそうになった瞬間だった。「仕方ないな」 痛い程に手首を引っ張られて、腰を掴まれた。そうして抱え上げられるなり、彼の肩に担がれる。   「──!」 とっさの事に驚いてしまった。  落ちないようにと片腕でがっちりと腰に腕を回……思いきり、おしりを触られているが、もはやそれどころではない。 背後からこの世の生き物とは思えない恐ろしい奇声が聞こえてくる。  ふとキルシュが身体を少し起こして後ろを見ると、やはりあの恐ろしい生き物が涎を垂らして追ってきていた。「ね

  • 機械仕掛けの偶像と徒花の聖女   9話 痛みの森

     新月の夜という事もあって、森の中はひたすらに暗かった。  しかし、カンテラなどの明かりをもっていたら、〝見えてはいけないもの〟が見えそうで、逆にこの真っ暗な方がかえって怖くない気がした。    森に入って一時間近く。キルシュは獣道を歩んで森の奥へと進んでいた。  時折、木の枝に引っかかったりもするが、問題なく歩けている。  こうも暗くとも暗順応が働き、目が慣れるものだった。それに針葉樹の隙間から見える星空を見る限り、星たちは西の方向へ動いている。  あと数時間で空が白み、夜明けを迎えるだろう。  それを理解すると、なぜだがホッとしてしまい、キルシュはその場にしゃがみ込んだ。「さすがに疲れたわ……」    家を出てから、ほぼ立ちっぱなしの歩きっぱなしでだった。  もう足が棒のようだ。膝も笑って力が入らなくなってきた。大都会で寮暮らしをするお嬢様にしては根性を出しただろう。ほんの少し自画自賛して、キルシュはその場に腰掛けた。 だが、そこで座ってしまった事が間違いだっただろう。  疲労から来る眠気は容赦無く襲いかかり、瞼が重たくなってきたのだ。  そもそも普段の生活では、日付が変わる前には確実に寝ているのだ。今の詳しい時間は分からないが、恐らく午前二時を過ぎたのではないだろうか。キルシュは瞼を擦って欠伸をひとつ。(せめて陽が昇るまでは起きていよう……) だが、もう一度立つ気力が湧かない。それに瞼は段々と持ち上がらなくなってしまった。国内屈指の心霊スポットだ。こんな場所で眠れるなんて自分の神経が意外にも図太いなんて自分でも心のどこかで感心してしまうが、体力的にもう限界だった。   (少しだけ、ほんの少しだけ……休もう)    すぐに起きるんだと自分に言い聞かせて。キルシュは、背を木の幹に背を預け眠りに落ちた。 それからどれ程の時間が経過しただろうか。  心地良い眠りを彷徨っていたキルシュは、どこか聞き覚えのある子どもの声に突如として叩き起こされた。『おい、キルシュ起きろ!

  • 機械仕掛けの偶像と徒花の聖女   8話 森の先にある未来

     無計画に歩む事、幾許か。  真っ暗闇に静まり帰った真夜中の街を横切り、林檎畑の続く農園地帯を横切り、領地の南端の方までやってきた。  そもそも伯爵家のある場所が領地の南寄り。実際には大した距離ではない。 ……無計画とはいえ、家出は成功させたい。  やはり兄の言った言葉は到底許せぬもので、キルシュ自身むきになっていた。だからこそ、せめてこれくらいは成し遂げたいなんて思えてしまった。    とはいえ、二度と帰らないという程の心構えではなかった。  いつか帰って来て、立派になって見返してやりたい。と、ふんわりとその程度に思うだけ。  それでも屋敷を出るのに成功したのだ。何だか、今なら何でもできる気がして仕方ない。   (あのお兄様に〝ぎゃふん〟と言わせてあげたい。そうできたら最高) この家出を本当の意味で成功させるには、絶対に見つからないように、探し出せぬように。これが必須だ。そこで考えたのは、国外逃亡だった。 今、キルシュの目の前には鬱蒼と茂る森が広がっていた。この森はシュメルツ・ヴァアルト……ツァール帝国と隣接するオルニエール王国の境となる森だった。 ……そう。レルヒェ地方でもヴィーゼ領は国境沿いの街だった。  だが、この深い森──シュメルツ・ヴァルトが理由してここには関所が無い。オルニエール王国との行き来するには、二つ以上離れた領地の川の関所を通らねばならない。  まさに抜け道と言えば抜け道だが……誰もこんな場所を通って他国に逃亡しようなんて考えもしないだろうと思えた。 だが、この選択は不思議と〝意図して〟というより自然と浮かんだものだった。  むしろ、勝手にこの方向に足が進み、直感的に悟っただけで……。(オリニエール語は一応話せるけど……ツァール語が普通に通じる地域が多いって聞いたわ。あちらで何かしら、仕事を見つけてどうにか生計を立てていけば暮らしていけるはず) きっと大丈夫だ。と、根拠も無い自信を心を弾ませて、キルシュは暗闇に広がる森を見る。  しかし、足は震えて一歩がなかなか踏み出せなかった。 この

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